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神仏あれこれ良くわかるおはなし

天台宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』のもとに、すべての衆生は仏になれると説く。

本尊 如来、明王、菩薩、天は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の姿を変えたものとされ、特定の仏を本尊とすることは無い。
しかしながら、一般的には阿弥陀如来、釈迦如来、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)などを本尊とすることが多い。基本的には菩提寺の本尊に習うのが良い。
脇尊 (右)天台大師・(左)伝教大師
総本山 比叡山延暦寺(滋賀県)
開祖 最澄(767~822)

最澄は天台教学、密教、禅、戒を融合した(四宗相承)総合仏教「日本天台宗」を開き、それは後の日本仏教の母胎となった。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元などの名僧が最澄の比叡山に学んだ。
「伝教大師」の号が贈られたのは56歳で生涯を閉じた44年後であった。

メモ:天台宗の勤行

朝は仏飯とお茶、花、供物をささげ、灯明をともし、仏前に正座。線香か香を焚き、リンを二回鳴らし『法華経』の経本を読む。最後にリンを三度鳴らし、教本を閉じ、合掌。
夕は『阿弥陀経』を中心として経をあげ、朝供えた仏飯、供物等をさげる。

曹洞宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

坐禅行を実践し、自らの中の仏性を見出す姿こそが仏であるとする「即心是仏(そくしんぜぶつ)」を説く。
その他の実践の路として、懺悔の功徳により罪を消滅させる「懺悔滅罪(ざんげめつざい)」、仏の掟に従い守り仏として目覚めを乞う「受戒入位(じゅかいにゅうい)」、煩悩の世界の人々を奉仕によって救う「発願利生(ほつがんりしょう)」、生きていることへの感謝の意をもって行を積む「行持報恩(ぎょうじほうおん)」を説く。それらひとつひとつがそのまま仏の道であり、目的のための手段ではないと教えている。

本尊 釈迦牟尼仏
脇尊 (右)道元禅師(左)瑩山禅師
総本山 永平寺(福井県)
総持寺(神奈川県)
開祖 道元(1222~1282)

1200年、京都で内大臣久我通親の子として生まれたが幼くして両親を亡くす。
比叡山で天台教学を修めたが、天台宗の教えに疑問を抱き、6世紀に達磨大師によって開かれた「禅宗」へと傾斜してゆく。
その後道元を悟りに導いたものは、24歳で渡中して出会った中国、長翁山の禅師・如浄だった。身心脱落の境地を得て帰国した道元は、28歳で京都・建仁寺に入り、その後、越前に移り永平寺を建て、1253年に没するまで自らの理想とする正伝の仏法の提唱と弟子の養成につとめた。

「否定の人」といわれる道元は、読経、念仏、真言密教、末法思想までも否定した。そしてその仏法の神髄を説いた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」は全95巻という大著で、日本最高の哲学書として和辻哲郎、ハイデッガーなど西洋哲学の研究家からも注目を集めた。

メモ:瑩山禅師

道元から四代目に当たる瑩山は、道元の教えを受け継ぐとともに、僧俗を問わず戒を授けて多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化にもつとめ、現在日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくった。曹洞宗では道元と瑩山を両祖と仰いでいる。

日蓮宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

釈迦の教えが及ばなくなった末法の世においては、「法華経」のみが広がるべきだとした日蓮の考えに基づき、「法華経の内容を全て信じ帰依する」という言う意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることこそが仏と心を通わす何よりの修行と説く。
そして、救われるのは来世ではなく現世でなくてはならず、その対象も個人だけに止まらず国家、社会も含まれるとしている。

本尊 「南無妙法蓮華経」の七文字。七文字のまわりに十界や諸尊の名を書いた「十界曼荼羅」が正式な本尊。その他に「三宝尊、「日蓮聖人」の像が用いられる場合もある。
脇尊 (右)鬼子母神(左)大黒天
総本山 身延山久遠寺(山梨県)
開祖 日蓮(1222~1282)

1222年、安房の国(現在の千葉県)で庶民の子として生まれる。
生家近くの天台宗清澄寺に入り、得度してから21歳の時に比叡山へ。膨大な書物を読破しながら、鎌倉、京都、高野山などへ訪れ、お釈迦さまの最高の教えである「法華経」こそが、真の仏教であるという確信を得た。
その後、清澄寺に戻った日蓮は日蓮宗を立教。そして、念仏などの邪教を捨て法華経に帰依せよと著書「立正安国論」を時の執権北条時頼に提出するが、これに対して、鎌倉幕府は日蓮こそ邪教であるとして弾圧。伊豆や佐渡に配流となる。ようやく許された日蓮は身延山に入り、1282年、享年61歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成に努めた。

メモ:日蓮宗の勤行

仏飯とお茶、花、供物をささげ、灯明をともし、仏前に正座。合掌して「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える。その際には木魚ではなく、木柾(もくしょう)を用いる。

臨済宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え


生まれつき備わっている尊厳で純粋な人間性(仏性)を坐禅行によって目覚めさせ、仏と寸分も違わぬ人間の尊さを把握することを教えとする。そのため、坐禅と日々の労働を重要視する。
臨済宗の禅は、「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれ、師匠が「公案」という問題を出し、弟子はこれを頭だけで理論的に考えるのではなく、身体全体で理論を越えたところに答えを見出す。そしてこの結果を検証するのが参禅である。師匠と二人きりで対面した弟子が見解を提示し、これを師匠が確かめるという方法を採る。

本尊 特定の本尊は無い。釈迦牟尼仏を本尊とする事が多い。
脇尊 各宗派により違いあり。例)妙心寺派の場合(右)無相大師(左)花園法皇
総本山 各派本山
開祖 栄西(1141~1215)

1141年、備中国吉備津宮(岡山県)に生まれた栄西は、11歳より天台密教を学び、19歳で比叡山に入る。
当時の貴族政争の道具と成り下がった日本天台宗を立て直すべく1168年に中国に渡り、そこで日本仏教の精神の立て直しに禅を用いる事を決意する。
天台密教の本覚思想を深めた栄西は、47歳で再び中国に渡る。5年間禅の修行に打ち込んだ栄西は、帰国後九州地方を中心に布教活動を展開し、博多に我が国初の禅寺・聖福寺を建立。この頃「興禅護国論」を著し、鎌倉の北条政子の支援を受け京都に建仁寺をつくっている。この建仁寺で修行に励んだ曹洞宗の開祖・道元は、栄西を非常に尊敬し、著書で栄西に関するエピソードを数回も披露している。
1215年、政子の願いで建立した鎌倉の寿福寺で75歳の生涯を閉じた。

メモ:中興の祖・白隠

江戸期の白隠は禅問答(公案)を日本人向けに再編し、今日の臨済宗の基礎を作った。現在の臨済宗十五派はすべて白隠の法系で占められている。また、禅の教えを表した絵を数多く描いたことでも知られる。絵はおそらく独学と思われるが、製作年がわかる最も早い作である「達磨図」ではすでに巧みな画技を見せている。

浄土真宗大谷派(東)の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

「絶対他力の考え」を説く。この絶対他力とは阿弥陀仏の本願力を指す。
既存の仏教では、仏になるには、厳しい修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要であるとされてきた。
しかし、浄土真宗では阿弥陀仏に帰依すると決めた時から浄土への往生が約束されるとする。

本尊 阿弥陀如来仏像、絵像が多く用いられる。
脇尊 大谷派(東):(右)帰命尽十方無碍光如来(十字名号)(左)南無不可思議光如来(九字名号)
総本山 大谷派(東):東本願寺
開祖 親鸞(1173~1262)

1173年、名門日野家に生まれ、9歳で得度。比叡山の堂僧であったが、京都・六角堂で救世観音の化身、聖徳太子が夢告したとし、29歳で比叡山を下り、浄土宗の宗祖法然の門に入った。しかし、念仏禁止例が発布され越後に流罪になる。
越後に配流された際、僧侶であるにもかかわらず結婚した親鸞は、非僧非俗の境地をひらき、自らを「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名乗る。流罪が解けた後も京都に戻らず関東で布教を続けたが、62、3歳の頃に帰京する。その後京都で著作活動に励むようになったが、1262年享年90(満89歳)をもって入滅する

余談ではあるが、親鸞の死後、教団は次第に衰微してゆく。その後、第八世蓮如によって再興を果たし、巨大教団に発展したため、他宗派や大名からの弾圧が激しくなる。その過程で西本願寺と東本願寺にわかれるが宗勢は衰えることなく現在に至っている。

メモ:浄土真宗の作法

浄土真宗では仏壇に位牌や遺影を祀る事はしません。その理由は、仏壇を阿弥陀如来を迎える場所と考えるからです。
また、脇掛が十字名号・九字名号の場合、その前に仏飯器は供えません。戒名という言葉も使わず、法名といいます。さらに、浄土には渇きという概念が存在しないため、茶や水を供える事はしません。その代わりに、恵みと味わい感謝するために、華瓶(けびょう)という仏具を使用します。華瓶一対に水を入れ、樒(しきみ)を挿して供えます。これは、仏さまの恵みに感謝する香水としてお供えするものです。

浄土真宗本願寺派(西)の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

「絶対他力の考え」を説く。この絶対他力とは阿弥陀仏の本願力を指す。
既存の仏教では、仏になるには、厳しい修行によって煩悩を断ち切り、善根を積むことが必要であるとされてきた。
しかし、浄土真宗では阿弥陀仏に帰依すると決めた時から浄土への往生が約束されるとする。

本尊 阿弥陀如来仏像、絵像が多く用いられる。
脇尊 本願寺派(西):(右)親鸞上人(左)蓮如上人
総本山 本願寺派(西):西本願寺
開祖 親鸞(1173~1262)

1173年、名門日野家に生まれ、9歳で得度。比叡山の堂僧であったが、京都・六角堂で救世観音の化身、聖徳太子が夢告したとし、29歳で比叡山を下り、浄土宗の宗祖法然の門に入った。しかし、念仏禁止例が発布され越後に流罪になる。
越後に配流された際、僧侶であるにもかかわらず結婚した親鸞は、非僧非俗の境地をひらき、自らを「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名乗る。流罪が解けた後も京都に戻らず関東で布教を続けたが、62、3歳の頃に帰京する。その後京都で著作活動に励むようになったが、1262年享年90(満89歳)をもって入滅する

余談ではあるが、親鸞の死後、教団は次第に衰微してゆく。その後、第八世蓮如によって再興を果たし、巨大教団に発展したため、他宗派や大名からの弾圧が激しくなる。その過程で西本願寺と東本願寺にわかれるが宗勢は衰えることなく現在に至っている。

メモ:浄土真宗の作法

浄土真宗では仏壇に位牌や遺影を祀る事はしません。その理由は、仏壇を阿弥陀如来を迎える場所と考えるからです。
また、脇掛が十字名号・九字名号の場合、その前に仏飯器は供えません。戒名という言葉も使わず、法名といいます。さらに、浄土には渇きという概念が存在しないため、茶や水を供える事はしません。その代わりに、恵みと味わい感謝するために、華瓶(けびょう)という仏具を使用します。華瓶一対に水を入れ、樒(しきみ)を挿して供えます。これは、仏さまの恵みに感謝する香水としてお供えするものです。

真言宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

人間が修行を積み生きながら仏になる「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を根幹にする。
具体的方法には、諸仏、諸菩薩のはたらきや功績を象徴した印を結ぶ「身密」、大日如来の教えである真言を唱える「口密」、大日如来に祈る「意密」これら「三密」を実行することと説いています。

本尊 本来は大日如来。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、その他、菩薩なども祀られることもある。
基本的には菩提寺の本尊に習うのが良い。
脇尊 (右)弘法大師・(左)不動明王
総本山 高野山金剛峰寺(和歌山県)
開祖 空海(774~835)

24歳の若さで「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆し、三教(儒教、道教、仏教)の中で仏教が最も優れている事を説いた。そして、804年には31歳で遣唐使の一員として入唐。このときのメンバーには天台宗の開祖『最澄』も含まれていた。
密教はインドで生まれ、中国に伝えられ、不空金剛(705~774)によって大成されたが、その後継者である恵果に空海は師事した。恵果は1000人を超える弟子の中から正当な継承者として空海を選び、空海は恵果から譲られた多くの経典、仏像、仏画、法具を船に積み込み帰国後、全国行脚を経て真言宗を開いた。

メモ:真言宗の勤行

仏飯、茶湯、供物、蝋燭と線香を供え、三度礼拝した後三度数珠をこすり、数珠を一連にして左手首にかけて読経する。お勤めの初めと終わりの祈願の際に、数珠を左手人差し指に緒留(おどめ)、右手中指に達磨のほうをかけ、房をどちらも手の中に入れます。そして、右手を下に、左手を上に三度こする。この際使用する数珠は百八珠が正式で、五十四珠、二十七珠のものもある。
※なお、作法は各宗派によって若干違いがあります。

浄土宗の仏壇が良くわかるおはなし

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教え

ただひたすらに阿弥陀仏の誓いを信じ、念仏を唱えることによって西方十万億土のかなたにある極楽浄土に往生できるという考え方「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を説く。
念仏は誰にでも納めうる「易行」であるがゆえに、弥陀の平等な慈悲心からいって本願にほかならないとする。

本尊 阿弥陀如来
脇尊 (右)観世音菩薩・善導大師(左)勢至菩薩・法然上人(円光大師)
総本山 知恩院(京都府)
開祖 法然(1133~1212)

平安末期に岡山県に生まれた法然は比叡山に学んだ。中国の善導が著した「観経疏(かんぎょうしょ)」によって、凡夫もまた救済される道があると知り、念仏に帰することを決意。それを広めんと43歳のときに比叡山を下りた。
「専修念仏」の教えを慕い、親鸞をはじめ多くの学徒が集まったが、「伝統的な仏教を否定するもの」として比叡山延暦寺の宗徒達の圧力により75歳のときに四国に配流された。
最後は法然ゆかりの寺、大谷の禅房(現在の知恩院)において80歳で大往生を遂げた。

メモ:浄土宗の勤行

朝は仏飯とお茶、花、供物をささげ、灯明をともし、仏前に正座。線香か香を焚き、リンを二回鳴らし『法華経』の経本を読む。最後にリンを三度鳴らし、教本を閉じ、合掌。
夕は『阿弥陀経』を中心として経をあげ、朝供えた仏飯、供物等をさげる。

「木目」と「杢目」の違いが良くわかるおはなし

木が生きてきた証とも言える木目。同じように見える木目にも、大きく分けて二種類の出し方が存在します。タケノコのような放物線状の目が並んだ木目を「板目(いため)」、均一な平行線状の目が並んだ木目を「柾目(まさめ)」と呼びます。一般的に、板目は目が面白く、製品にした際にユニークなものになりやすいというのが特徴です。それに対して柾目は、平行線が並ぶので目は落ち着いた印象を与えるものが多いですが、均等に木目が並んでいるので、反りづらく割れにくいのが特徴です。また、柾目は一本の丸太を縦に挽いた木材の左右部分を使用したり、縦に四分割した木材を板にしたりするため、板目よりも幅が短くなり、必然的に価格も高くなりがちです。
 
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次に、「杢目」と書く場合の目はどのようなものが当てはまるのかについてお話ししたいと思います。一般的に「杢目」と書いた場合、単なる板目・柾目より特殊な紋様が現れている場合を言います。
季節、天候、病気などの不安定な自然界で育った木は、曲がったり、コブが出来たりします。その結果、年輪は歪み、縮み、特殊な杢目を形成するに至り、その杢目のある木材を切断することにより、『玉杢(たまもく)』『縮緬杢(ちりめんもく)』『牡丹杢(ぼたんもく)』等の奇紋が生まれるのです。これらは、貴重で高価な材の為、無垢板で使うことはまずありません。スライサーで薄くスライスし、表面材として使われる事がほとんどです。それでも、表面材になるような大きな板が取れる銘木は少なく、大きくてもおよそ50cm角程度でしか使えないと考えて問題ないでしょう。
 
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板目の仏壇やスライスして高級仏壇の表面材に使われた杢目を見ていると、大きな柾目が取れる太い天然木の資源や、稀少な杢目が見られる高樹齢の自然木が無くなって来ているのをひしひしと感じ、同時に、非常に残念に感じます。
 

お仏壇の選び方が良くわかるおはなし

お仏壇をお選びになるポイントは、私供が接客させて頂いたお客様の例ですが、「お部屋との調和(色目、木目、デザイン、サイズなど)」「ご予算」「御宗派」「長持ちするかどうか」このあたりを重要視するお客様が多いようです。 通常、お仏壇の価格は、職人の手間のかけ方、材料(木材、金箔など)、によって決まります。そして、組み上げた職人による技術の差が大きな違いとなります。良い素材を用いて、腕のよい職人が時間をかけて作り上げれば、質の良い仏壇ができる代わりに価格は高くなります。逆に考えれば、あまりにも極端に安い仏壇には、必ず理由があると考えても良いかもしれません。(近年はインターネット上で入金をしても物が届かない詐欺サイトが多数存在しているので、そこにも注意が必要です)
 

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唐木仏壇に使用される木材は、伝統的に防腐性、防虫性、耐久性に優れていたり、杢目が美しかったりするものが好んで選ばれました。黒檀や紫檀、桑や欅が一例として挙げることができます。近年ではそれら高級木材の杢目のみを加工がしやすい安価な木材の上にプリントしたり、杢目がプリントされたシートを表面に張り付けたりした仏壇を作ることが可能になりました。それらは、一見しただけではプロでも見分けがつかない位良くできたものもあります。当然ながら杢目を印刷しただけでは高級木材の持つ耐久性は持ち合わせることはできませんので、耐用年数に差が出る事は言うまでもありません。

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お仏壇は毎日ご先祖様と心通わせる場所であり、あなたや家族の幸せと繁栄を祈り、自分を見つめ直す心の支えとなる場所です。そして何度も買い替えるものではありませんので、納得いくまでお店に通い、数十年先の事まで考えた上で良いものを選ばれることをお勧め致します。
 
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